故郷の水簾洞を離れた悟空は、ようやく巡り会った須菩提祖師から仙術を学び、一躍十万八千里(約40万キロ)をひとっ飛びする觔斗雲の術をはじめとする地殺七十二変化の術を修得し、須菩提にわかれを告げて故郷に戻ります。
戻ってみると、仲間の猿たちの数が減っており、水簾洞は荒れ果てておりました。 何故こんなことになったのかと聞くと、 「北の方から混世魔王という妖怪がやってきて、 子猿たちをさらっていくのだ」 とのことです。 悟空はかんかんに怒り、早速混世魔王のところに行き、魔王を頭からまっぷたつにしました。 魔王に捕らえられていた小猿たちを救出し、大勝利で凱旋しました。 -------------------------------- 中国語の 混 とは、ただ混じるという意味だけではなく、 誤魔化す (混蛋 / ふんたん)曖昧にする (混帳 / ふんつぁん)という意味があります。 混世魔王 とは、曖昧にごまかして生きる、いいかげんにやって、けじめのない悪魔です。 仕事、勉強、休み、遊びの区別なく、ただ、ダラダラと毎日を過すことを言います。 なぜこの悪魔が北から来たのかといいますと、これにも深い意味があります。北には玄武という守り神がおり、十二支では子(ね)の方角です。 八卦や五行に関しては、もう少し後で老君が登場したら詳しく書くことにしますが、北という方角は、北極星のある方角で、もと始りの方角です。 実際に、混世魔王は北にある険しく高い山に住んでいました。 遊手好閑 虚度光陰 一事無成 (遊手好閑 / 暇を好んでブラブラして何もしない) (虚度光陰 / 空しく、なにもしないまま月日が過ぎる) (一事無成 / 一事のことも成さず、一生のあいだに、結局なにもしなかった) これが、恐怖の混世魔王です。 怖いですねぇ~。 そして、混世魔王は、子猿達をさらって行くのです。 わたしには、とても身に覚えのある出来事です。 親のこうした態度は、子供達のこころを真っ先に蝕んで、子供達は放蕩で家を空けるようになります。 仏門に入り、仏の道を歩みたいのなら、この 「混」 を斬って捨てろと西遊記は書いております。 そして、それが第一歩となると教えてくれます。 ものごと、基盤の第一だということです。 また、子供を持つ親にとって、この悪魔・妖怪は、あなたの子供に対して影響し、あなたの子供達をさらって行くよと教えてくれます。 悟空のように、混世魔王を頭から叩き斬り、まっぷたつにしてしまわなくてはなりません。 悟空は修行を積んで空を悟っていますから、混世魔王など相手ではありません。 ごまかしや怠慢など、すぐに見破り、多少は手こずりますが、一刀両断です。 さも仕事をして忙しそうなフリをして誤魔化し、まともなことをしているようなポーズを取ってダラダラと経営し、結局まともな結果を出さないまま日々の業務だけをこなしているようでは、弟子、部下、顧客、取引先、子供達は、皆どこかへ行ってしまうだろうと云う道理について、読みとることができます。 西遊記の、このセンテンスについて いろんな解釈ができると思いますが、このような解釈もできると思います。 2006年7月2日(日) 合掌 野崎明美・九拝 #
by polestar01
| 2006-07-02 17:24
| 登場人物
西遊記の中には、随分多くの登場人物が出てきます。
そして、それぞれが意味のある役割を持っております。 その中でも、孫悟空、玄奘法師、猪八戒、沙悟浄、の四人は物語に必要な特別な存在です。 主人公格の四人には、それぞれ役割があります。 玄奘は、別名三蔵といい、学者の象徴、経典研究者。 悟空は、別名孫行者といい、行者の象徴。 悟能は、別名八戒。戒律によって寺院を経営する僧侶。 悟浄は、別名沙和尚。 (さおしょう) 寺院において布教をする僧侶の象徴です。 涅槃に至る、四つの道を、彼らになぞらえ物語は展開していきます。 それぞれの道は違いますが、一緒に行くこともでき、助け合い、協力し合って、ともに 羅漢菩薩如来へと成長していくのです。 その様子を、西遊記では細かく説明しております。 たとえば一行が揃って一番最初に訪れた場所は、観音禅院という怪しいお寺でした。 この 『観音』 とは、他力本願である浄土宗の永世如来の脇士にあたる、菩薩さまを指します。 『禅院』 とは、自力本願の禅宗のことです。 この物語の中での、『観音禅院』 という寺の持つ意味は、本来、宗旨のうえで相容れない浄土宗と禅宗が同居しているお寺、という意味です。 どういうことかと申しますと、 「売れるものならなんでも商売にするお寺」という暗喩です。 もっと言及するならば、人が喜ぶもの、檀家が喜ぶもの、売れるもの、商売、檀家の顔色を見ながら金勘定をする、お寺の象徴です。 いいかげんな寺、という意味です。 売れるものなら何でも売ろうという偽宗教者がこの寺の住職でした。 ですから、こういう和尚はえびす顔の商売人であって、決して宗教家ではない、という示唆です。 この寺の住職はニセモノばかりを沢山あつめて、なんと 270 歳とのことです。 三蔵法師一行がやってくるまでの 270 年間は、それらが全部ニセモノだとは気が付かないで、 けっこうリッチで楽しい毎日を送っていたようです。 (それも、270年間) ところがある日、三蔵法師の一行という、本物があらわれました。 その結末として、デタラメ住職はどうなったかというと、悪巧み、悪あがきをしたあげく、どうにもならなくなって、恥ずかしさのあまり壁にアタマをぶつけて自殺してしまうのです。 -------------------------------- この、観音禅院は、けっこう檀家や世間の人気もあって、住職もそこそこの好人物だったようです。 得に悪さをするわけでなく、三蔵法師一行がやってきたときも、丁重にもてなし、楽しい世間話をして場を和ませようとしています。 いいかげんな人ほど、初対面の人当たりはいいものです。 逆に、生真面目な人は人見知りが激しく、初対面での印象が悪いものなのです。 この観音禅院の和尚さんは、とても好人物で人徳のある (ように見える) 魅力的な人だったに 違い有りません。 それに比べて、三蔵法師の一行は、乞食坊主と人相の悪い妖怪三匹です。 それでも和尚はにこやかに、なごやかに招き入れ、お宝自慢を始めます。 本当の宗教家は、そういうことはしませんが、商売人は業績が自慢になりますから、お宝を自慢して悦に入ります。 そういう話が大好きで、夢中になります。 猿から修行を積んで空を悟った叩き上げの行者である悟空は、聞いててイライラしてきます。 「お師匠さん、こいつをギャフンと言わせてやろうぜ」 と、一発でカタを付けたくってしょうがなくなります。 観音善院のデタラメ和尚が、ニセモノばかりを披露して延々自慢話をしているものですから、悟空は本物ひとつ見せて、それで片づけたくって仕方がないわけです。 仏教の行者は、商売の成功者より、ずっと素晴らしい宝を持っており、世俗の金銀財宝がガラクタにしか見えないので、こういう態度をとるのです。 また、あとで説明致しますが、このイライラが悟空によからぬ邪心を起こします。 三蔵は研究者ですから、そもそも他人の宝に興味がありません。 そのうえ、自分の宝を見せびらかすという考えがありません。 なぜなら、コツコツと勉強を続ける研究者 (経典研究、仏法学者) の成果というものは、人には見せることができないものだからです。 自分自身がコツコツと精進して行く以外に道が無く、その成果を盗まれることもありませんが、見せびらかすこともできないのです。 だから、悟空のイライラは、三蔵には理解できません。 沙悟浄と猪八戒も、この話には参加しません。 これは、ふたりが観音禅院の和尚と同じ、寺院経営者だからです。 観音禅院の和尚が持っているような おたから も持っていませんし、三蔵や悟空が持っているような 「宝」 も持っていないので、観音禅院の和尚が 「まあ、ひとつ。目の保養にでも」 と見せてくれた金襴緞子の袈裟を眺めて、言われたとおりに目の保養をしているので、普通に接待されています。 西遊記は戒めます。 それは、観音禅院の和尚さんに対してではなく、悟空と三蔵である読者に対して注意を喚起しています。 コツコツ勉強している人は、他人の宝には興味がないし、関心を持ちません。 コツコツ勉強した研究成果は人に見せびらかすこともできませんし、狙われることもありません。 勉強の秘訣やツボ、コツというものはなく、ただひたすら、勉強をする以外には方法がありませんから、そのコツや秘訣を見せることもできなければ、盗られることもありません。 学習したことは、すべて研究者のアタマの中にあります。 ところが行をおさめることによって仏道を歩む者には秘訣やツボがあり、そのマニュアルがあります。 それを行じて日々研鑽していくと、他人にはできないテクニックが身に付きます。 これは、是非とも見せびらかしたいものです。 日々の修行によって得た能力を、見せびらかしたくなる誘惑が行者を誘います。 能ある鷹が爪を隠すことを忘れ、得意になって技を披露するのは、やめなさいよと西遊記は教えています。 修行の成果をみせびらかされた人は、その修行成果をうらやましく感じ、その修行の秘訣を知りたがります。 そして技を盗もうと狙い、その命さえも狙われることになります。 西遊記は、修行者に対して、 ちょっと修行して技が使えるようになったからと言って、自慢をするなよ得意になって人に見せびらかすなよと、戒めています。 ほかの三人には、この戒めは不要です。 また、観音禅院の和尚は、そういうレベルではありません。 -------------------------------- 観音禅院のモーロク和尚が、270年もかけて溜め込んだガラクタを、さも 「凄い財宝」 「珍しいおたから」 「貴重な展示物」 などと見せびらかすので、悟空はイライラしてしまい、法力に任せて 「唯一の真実」 を見せつけてしまいます。 その象徴として如来から授かった袈裟一枚を出すのです。 これを見た観音禅院の僧侶は涙をこぼし、悔しがります。 「自分がこれまで集めてきたものは、ほんとうにクズばかりだ、カスばっかりだ、ガラクタばかり」 と嘆きます。 そして、 「それこそ、まことの宝」 と悟るところまでは正常なのですが、そのあと 「いつもの癖」 が出てきて、なんとか誤魔化してそれを奪いたいと思う気持ちに支配されます。 そこで 一晩貸して欲しい、ゆっくり見たい、と でまかせを言います。 こうやって、腹芸を使って 270年も生き延びてきたのですから、そう簡単に、悪い癖は直りません。 うまく誤魔化して、ちょろまかしてしまえば良いと、それまでのやり方で 「真実」 を得ようとします。 三蔵以下、悟浄と八戒は、そんな騙しのテクニックがあるとは思っていませんから、 「ちゃんと返してちょうだいね」 と言って、何も疑わずすやすや眠ってしまいます。 ところが、悟空だけはそれがわかっています。 修行者はかつて、そういうことを、 したこともあるからなのです。 修行でたたき上げてきた悟空には、観音禅院の和尚の考えなんかお見通しだったのです。 そこでどうするかと眺めていると、やっぱり悪事を始めます。 ハナから面白くなかった悟空は、ここではかりごとをします。 お宝比べの時でも、観音禅院のデタラメな和尚相手にムキになった悟空です。 「そういう悪いことはしてはいけないよ」 なんて、可愛いことは云いません。 俺の方が一枚上なんだぜ、ということろを、やっぱり見せつけないと気が済まないのです。 そんなことをしている間に、袈裟は別の妖怪に横取りされてしまいます。 この時、お袈裟を盗んだ妖怪の名前は 黒風山 の 黒風洞、 黒大王黒、黒、黒の、黒ずくめの、黒い妖怪とは、人の心の中に棲む黒い悪魔のことです。 腹黒さ、悪意、ごまかし、いやがらせ、という邪心の化身です。 悟空は、ガラクタを見せびらかされて、すっかり嫌気がさし、段々 「嫌がらせ」 をしたくなったわけです。 その感情に支配されてしまったので、忽然と消えてしまった袈裟の行方が、当初はわかりませんでした。 ムカムカとしているスキに、袈裟が消えてしまったのです。 でも、悟空は悟っているので 「ちょっと考えれば、自分の非に、すぐ気が付く」 のです。 それが 自分自身の腹黒さなのだ、自分の心の邪心なのだとわかりました。 そこで悟空は我がうちなる 腹黒さと戦うわけです。 ところがこれに勝てません。 わかっていても勝てません。 なかなか手強いのです。 このとき、黒大王に立ち向かったのは悟空ひとりで、三蔵と悟浄と八戒は、はじめからこの妖怪には手を出しませんし、妖怪も三人には手出しをしていません。 うちなる腹黒さ、黒大王と戦っても戦っても、悟空は勝てず、どうしようもなくなって観音菩薩に援護を依頼します。 「誰かと思えば猿ではありませんか。 相変わらず悪さばかりして、 自分が悪いんでしょう!」 と菩薩さまから一喝されてしまうのですが、 「はいそうです、ごめんなさい」 と引き下がるわけにもいかない悟空は、なんとかお願いしますと懇願します。 懇願するうちに、邪心を生んでしまった原因も悟ります。 悟空に懇願されて渋々菩薩が登場します。 「おまえほどの者でも、勝てませんか。そもそもおまえが悪いのですよ。しかし、(観音様がおでましになる以外) ほかに、方法はないみたいですね」 とのことです (笑 仏を学び、その知識のある者 (三蔵) にも、空を悟った行者でさえも、自分の心の中にある 悪意、ごまかし、腹黒さには、勝つことが出来ない、と 『西遊記』 は言及しています。 では、どうすれば勝つことが出来るか、と言うことも書いています。 その秘法は、菩薩の行、菩薩の智慧、菩薩の心を持ちなさい、自在心で勝つことが出来る、と物語は教えています。 菩薩の智慧は、悟った人の中には、いつでもあるとは限らない、悟っていなくても、それがないとは限らない、と物語は教えています。 悟空は、空を悟った者。 悟浄は、浄を悟った者。 八戒は、本名を悟能といい、能を悟った者。 (自分とは何者か? 自分には何が出来て、何ができないか) 玄奘は、三つの蔵を求める探求者。 研究者、非常に優れた学者です。 西遊記の旅を始めるスタートラインでは、皆それぞれ、その道のエキスパートで、そこそこ優秀なのです。 それぞれ世界一の専門家で普通だったらカリスマ和尚として君臨できる程の実力者ばかりです。 その四人が、如来 (お釈迦様) のお導きで、旅に出ます。 みずからも如来になるにはどうしたら良いか、ということが 西遊記には書かれています。 西遊記の、このセンテンスについて いろんな解釈ができると思いますが、 このような解釈もできると思います。 2006年7月1日(土) 合掌 野崎明美・九拝 #
by polestar01
| 2006-07-01 01:40
| 登場人物
釈尊の死んだ後、仏教はその理論面で大きな進歩があり、具舎論の五位七十五法の分類が出てきました。
この世のあらゆる現象や出来事はすべてこの75の法のなかにおさまり、おさまらないものはこの世にあり得ないという世のことわりのことです。 法規範としての教えと、この世界を構成する要素。無為法。作為や因縁のない象(かたち) 虚空無為 何もない空間。 択滅無為 智慧によって煩悩から離れる(涅槃のこと) 非択滅無為 煩悩の原因がないために煩悩がない。 有為法作為や因縁のあるもの、こと、象(かたち)。色法 物体。五根とは、感覚器官。耳根(聴覚) 眼根(視覚) 鼻根(嗅覚) 舌根(味覚) 身根(触覚) 五境感覚を通じて知るもの。声境(聞こえるもの) 色境(見えるもの) 香境(におうもの) 味境(味を通じて知る) 触境(触って知るもの) 無表色(有るけれども感じられないもの。 心法こころそのもの。心所有法==こころから出たものごと 大地法・・・識に伴い起こる心の作用。 受(感受) 想(表象) 思(思考) 触(接触) 欲(欲求) 慧(弁別) 念(記憶) 作為(配慮) 勝解(しょうげ・充分な理解) 三摩地(さんまじ・こころの集中) 大善地法善意を伴う心の作用。信(誠実) 勤(勤労) 捨(こだわらない) 慚(ざん・りっしんべんに車、斤。自己反省) 愧(き・りっしんべんに鬼、 他人に対して自分のしたことを恥じる) 無貪(むどん・むさぼらない) 無瞋(むしん・目へんに旧字の真。おこらないこと) 不害(こわさない) 軽安(きばらない) 不放逸(気ままなやり放題をしない) 大不善地法善意を伴わない心の作用。無慚(反省しない) 無愧(恥知らず) 小煩悩地法悪い心を伴う心の作用。忿(ふん・憤り) 覆(ふく・過ちや間違いを隠す) 慳(けん・りっしんべんに堅。ケチ) 嫉(しつ・ねたみ) 悩(頑迷) 害(悪意) 恨(恨み) 諂(へつらい) 誑(きょう・騙す、誑かす) 驕(おごり) 大煩悩地法悪い行いを伴う心の作用。痴(ち・理性を失った強引な愛着) 放逸(やりたい放題) 懈怠(りっしんべんに解、怠。なまける) 不信(不誠実) 恨沈(こんちん・よく考えない) 掉挙(ちょうこ・不真面目でふざけていい加減) 大定地法その他の心の作用。尋(じん・迷い) 伺(し・きむずかしい) 貪(むさぼり) 愼(しん・怒り) 慢(まん・油断) 疑(ぎ・疑い) 悪作(あくさ・後悔) 睡眠(眠り) 心不相応行法心の作用だけでないもの。生(発生) 住(存続) 異(変化) 滅(消滅) 得(得る) 不得(得られない) 同文(同じく揃う要因) 命根(生命力) 名身(名称・単語) 句身(文章) 文身(文字) 無想定(無想による禅定) 無想果(無想定によって得られる成果) 滅尽定(六識を滅する禅定) #
by polestar01
| 2005-05-22 18:41
| 仏教・資料
須菩提祖師とは、釈尊十大弟子のなかの一人です。
十大弟子には順序があって、須菩提は第一の弟子です。 須菩提は釈尊に解空第一、と称されておりました。 釈尊は人を誉めるのがとても上手だったようです。 どんな弟子にもその優れた面について賞賛し、その得手を引き出すように褒め称えています。 だれが見ても取り得のないような愚か者に対しても、あなたは優れて真面目ですと褒め称えることのできた人で、それはまた、嘘偽りのない真実でもあり、このようなことができた、ということについてもわたしは、それが悟った人の行いなのかと思いをはせるものです。 解空第一というのは、 あなたは空を解く道に非常に優れており、第一人者である、という意味です。 読んで字の如しですが。これが須菩提です。 この須菩提を筆頭に弟子は順に 持律第一の優波離(ゆうばり)、 智慧第一の舎利弗(しゃりふつ)、 頭陀第一の摩迦葉(まかよう)、 天眼第一の阿那律(あなり)、 神通第一の目健連(もくけんれん)、 多聞第一の阿難陀(あなんだ)、 密行第一の羅侯羅(らごら)、 論議第一の加旋延(かせんえん)、 説法第一の富楼那(ふるな) がおります。 この件については わたしが独自に調べた物であって、わたしの関わりがある僧侶達とはまったく関係がありません。 ※ 現在交流のある僧侶達と知り合ったのは 2002年のことで、上記の記述 (孫悟空に関する記述) は2000年に わたしが書いたものを手直しして掲載しております。 この十人が十大弟子といわれます。 羅侯羅 (らごら) は釈尊の息子のラーフラです。 出家してしまった夫のもとへ財産をもらってきなさいと息子を送り、息子は母に言われたとおりに実父の釈尊に言うと、世界一素晴らしい宝物をあなたにあげましょうと言って、彼を弟子にしました。 それぞれの弟子にそれぞれの逸話がありますので、調べて味わうことは楽しいことです。 さて、話を須菩提に戻します。 釈尊のお弟子の中で須菩提は、釈尊の説く「空」について、一番よく理解した弟子でした。 釈尊の理解者で後援者であった給孤独長者の弟の子で、長者が釈尊に祇園精舎を寄進したとき、その説法を聞いて出家したといわれています。 石猿は解空第一の須菩提の弟子になったので悟空と名づけられました。 ここに須菩提の存在理由があります。 (物語の設定環境としての、須菩提という登場人物の存在価値) 須菩提祖師と出合った悟空はすぐさま弟子入りし、師について法を学びます。 人間であったほかの弟子達よりも物覚えが速く、術もどんどん上達してやがて最高位の弟子になります。 師に入門して十年で地殺七十二変化の術をすっかり習得し、師匠に別れを告げて家来たちの待っている花果山に戻ります。 #
by polestar01
| 2005-03-16 21:12
| 登場人物
仏教にはいろんな体系があり、いろんな門があります。
その源流も今ではここだというひと、あそこだというひと、いろいろでわかりません。 しかし「空」という概念は仏教思想史と仏教全門を通し共通の基本概念です。 それを悟るということはどういうことを指すのか、そもそも「空」とは何か。 インド仏教にその説明をたずねたり、チベット仏教のそれを求めたり、多くの求道者たちが空を求め、空を説明しています。 しかしここでは単に、 「すべてのものごとには実体がなく、そのもの、そのことが何であるかは、他のものや他のこととの関係できまる」 と理解する程度にしてください。 この物語を読むために読者が空を悟る必要はありませんし、空を理解する必要もありません。 「そこに空を悟った人がいた」 と、思ってください。 この空というものを悟る、悟った人は、おそらく意識せずに、ごく自然に、自分の知ったとおりに考え、自分の知ったとおりに言い、自分の知ったとおりに行うことのできる人、いうなれば 『普通の人』 でしょう。 これについても、いろんな人のいろんな意見があると思います。 今はただ、悟った人というものがあって、その人は自由闊達である、と理解するだけで良いと思います。 わたしは仏教について語りたいのではなく、この物語を読みたいのです。 この物語を読む上で必要な、最低限の知識としての仏教についてを書いているに過ぎません。 西遊記によれば、 光がさして天地が始まり、そこには 東勝神州(とうしょうしんしゅう)、 西牛賀州(せいごかしゅう)、 南贍部州(なんせんぶしゅう)、 北倶蘆州(ほくぐるしゅう) があったとあります。 孫悟空はそのなかの東勝神州の、 傲来国というところの、 花果山という山のてっぺんで生まれています。 東勝神州とは、東にある勝れた(すぐれた) 神の国、(すばらしい世界)という意味です。 州というのは文明という意味も含んでいます。 この名称を風刺も含めて読みますと 東にあって他の国よりも素晴らしいと 自分で思い込んでいる世界、 という意味になり、 中国とその周辺を含んだ文明の事を指します。 傲来国とは傲慢が来る国、 自負心が来る国という意味で中国そのものです。 昔は世界の中心ということでかの国を 中華と呼んでいたことと同じです。 花果山は花が実を結ぶ山という意味で、やれば必ず結果が出るという山のことです。 その山とはどんな山のことでしょうか。 これがおそらく仏教のことでしょう。 このお話しは、そこからスタートして、そこに帰結します。 その山に石が生まれます。 高さは三丈六尺五寸。およそ12メートルです。 天地の始まりからこの石はあって、 日に照らされて太陽の精を吸い、 月に照らされて太陰の精を吸い、 天地の陰陽の精を吸い続け ほどなくサルが生まれます。 そのサルのことをはじめ物語では石猿といいます。 石とは頑固、へんくつ、あらっぽい、という意味で、洗練されていない人という意味です。 これは人間の本性です。 猿とは、心猿という言葉があるように こころを示しています。それも獣のような心です。 このことから 洗練されていない人間の本性から 心がうまれるということが読みとれます。 その出生も含めてこれが、物語のテーマとなっています。 のちに石猿こと、本性丸出しの乱暴者は、仲間をみつけて その中で暮らし、みずから美猴王と名乗ります。 うつくしい心を持っている、洗練されていない猿のような人物として、多くの人たちに慕われ、 そこで王様として大切にされます。 美猴王としての寿命は百年も続きました。 ほどなくその段階も卒業に近づく頃、彼は何をしても楽しめなくなり、つぎのステージを求めて旅に出ることになります。 仲間と別れを告げて王位も捨てて、一匹の猿になっていかだに乗って海を渡り、国々をさまよい、師を求めて徘徊します。 それは何の為でしょうか。 その時の猿の心の中には、ただ、このまま生きているのは空しいから、甲斐のある生き方をするために もっと寿命が欲しいということだけでした。 甲斐のある生き方というそのものについては何か具体的なイメージがあったわけではありません。 毎日を勝手きままに生きるだけでは楽しいだけで何もない、やがて来る死を待つばかりで、その死を防ぐ方法を知らない。 ある日突然閻魔大王が来たら、しおしおとついて行くだけで、まったく抵抗ができないことに気がつき、そうならないためにはどうしたらよいかと考えました。 その心配の為に何をしても悲しくなり、心配でたまらなくなったのです。 いろんな生き物ののなかで死なないものは仏と仙人、神様の三種類ということを智慧者から学びます。 神や仏になるというのは高望みだと思った猿は仙人くらいにはなっておきたいと考え、仙人の弟子になるためにその師を求めて旅に出ます。 ところがいい師匠がなかなか見つからず、花果山をはなれて八、九年のころ、ようやく須菩提祖師という名師にめぐり合うことができました。 #
by polestar01
| 2005-03-12 22:11
| 登場人物
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