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四人の役割と観音禅院

 西遊記の中には、随分多くの登場人物が出てきます。
そして、それぞれが意味のある役割を持っております。

その中でも、孫悟空、玄奘法師、猪八戒、沙悟浄、の四人は物語に必要な特別な存在です。
主人公格の四人には、それぞれ役割があります。

玄奘は、別名三蔵といい、学者の象徴、経典研究者。
悟空は、別名孫行者といい、行者の象徴。
悟能は、別名八戒。戒律によって寺院を経営する僧侶。
悟浄は、別名沙和尚。 (さおしょう)
寺院において布教をする僧侶の象徴です。

涅槃に至る、四つの道を、彼らになぞらえ物語は展開していきます。

それぞれの道は違いますが、一緒に行くこともでき、助け合い、協力し合って、ともに

羅漢


菩薩


如来


へと成長していくのです。

その様子を、西遊記では細かく説明しております。


たとえば一行が揃って一番最初に訪れた場所は、観音禅院という怪しいお寺でした。

この 『観音』 とは、他力本願である浄土宗の永世如来の脇士にあたる、菩薩さまを指します。

『禅院』 とは、自力本願の禅宗のことです。

この物語の中での、『観音禅院』 という寺の持つ意味は、本来、宗旨のうえで相容れない浄土宗と禅宗が同居しているお寺、という意味です。

どういうことかと申しますと、
「売れるものならなんでも商売にするお寺」

という暗喩です。

もっと言及するならば、人が喜ぶもの、檀家が喜ぶもの、売れるもの、商売、檀家の顔色を見ながら金勘定をする、お寺の象徴です。
いいかげんな寺、という意味です。
売れるものなら何でも売ろうという偽宗教者がこの寺の住職でした。

ですから、こういう和尚はえびす顔の商売人であって、決して宗教家ではない、という示唆です。

この寺の住職はニセモノばかりを沢山あつめて、なんと 270 歳とのことです。
三蔵法師一行がやってくるまでの 270 年間は、それらが全部ニセモノだとは気が付かないで、
けっこうリッチで楽しい毎日を送っていたようです。
(それも、270年間)

ところがある日、三蔵法師の一行という、本物があらわれました。
その結末として、デタラメ住職はどうなったかというと、悪巧み、悪あがきをしたあげく、どうにもならなくなって、恥ずかしさのあまり壁にアタマをぶつけて自殺してしまうのです。

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この、観音禅院は、けっこう檀家や世間の人気もあって、住職もそこそこの好人物だったようです。
得に悪さをするわけでなく、三蔵法師一行がやってきたときも、丁重にもてなし、楽しい世間話をして場を和ませようとしています。

いいかげんな人ほど、初対面の人当たりはいいものです。
逆に、生真面目な人は人見知りが激しく、初対面での印象が悪いものなのです。

この観音禅院の和尚さんは、とても好人物で人徳のある (ように見える) 魅力的な人だったに
違い有りません。

それに比べて、三蔵法師の一行は、乞食坊主と人相の悪い妖怪三匹です。
それでも和尚はにこやかに、なごやかに招き入れ、お宝自慢を始めます。

本当の宗教家は、そういうことはしませんが、商売人は業績が自慢になりますから、お宝を自慢して悦に入ります。
そういう話が大好きで、夢中になります。

猿から修行を積んで空を悟った叩き上げの行者である悟空は、聞いててイライラしてきます。
「お師匠さん、こいつをギャフンと言わせてやろうぜ」
と、一発でカタを付けたくってしょうがなくなります。

観音善院のデタラメ和尚が、ニセモノばかりを披露して延々自慢話をしているものですから、悟空は本物ひとつ見せて、それで片づけたくって仕方がないわけです。

仏教の行者は、商売の成功者より、ずっと素晴らしい宝を持っており、世俗の金銀財宝がガラクタにしか見えないので、こういう態度をとるのです。

また、あとで説明致しますが、このイライラが悟空によからぬ邪心を起こします。

三蔵は研究者ですから、そもそも他人の宝に興味がありません。
そのうえ、自分の宝を見せびらかすという考えがありません。

なぜなら、コツコツと勉強を続ける研究者 (経典研究、仏法学者) の成果というものは、人には見せることができないものだからです。

自分自身がコツコツと精進して行く以外に道が無く、その成果を盗まれることもありませんが、見せびらかすこともできないのです。
だから、悟空のイライラは、三蔵には理解できません。

沙悟浄と猪八戒も、この話には参加しません。
これは、ふたりが観音禅院の和尚と同じ、寺院経営者だからです。

観音禅院の和尚が持っているような おたから も持っていませんし、三蔵や悟空が持っているような 「宝」 も持っていないので、観音禅院の和尚が
「まあ、ひとつ。目の保養にでも」
と見せてくれた金襴緞子の袈裟を眺めて、言われたとおりに目の保養をしているので、普通に接待されています。

西遊記は戒めます。
それは、観音禅院の和尚さんに対してではなく、悟空と三蔵である読者に対して注意を喚起しています。

コツコツ勉強している人は、他人の宝には興味がないし、関心を持ちません。
コツコツ勉強した研究成果は人に見せびらかすこともできませんし、狙われることもありません。
勉強の秘訣やツボ、コツというものはなく、ただひたすら、勉強をする以外には方法がありませんから、そのコツや秘訣を見せることもできなければ、盗られることもありません。
学習したことは、すべて研究者のアタマの中にあります。

ところが行をおさめることによって仏道を歩む者には秘訣やツボがあり、そのマニュアルがあります。
それを行じて日々研鑽していくと、他人にはできないテクニックが身に付きます。
これは、是非とも見せびらかしたいものです。

日々の修行によって得た能力を、見せびらかしたくなる誘惑が行者を誘います。
能ある鷹が爪を隠すことを忘れ、得意になって技を披露するのは、やめなさいよと西遊記は教えています。

修行の成果をみせびらかされた人は、その修行成果をうらやましく感じ、その修行の秘訣を知りたがります。
そして技を盗もうと狙い、その命さえも狙われることになります。

西遊記は、修行者に対して、

ちょっと修行して技が使えるようになったからと言って、自慢をするなよ


得意になって人に見せびらかすなよ


と、戒めています。

ほかの三人には、この戒めは不要です。
また、観音禅院の和尚は、そういうレベルではありません。

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観音禅院のモーロク和尚が、270年もかけて溜め込んだガラクタを、さも
「凄い財宝」
「珍しいおたから」
「貴重な展示物」
などと見せびらかすので、悟空はイライラしてしまい、法力に任せて
「唯一の真実」
を見せつけてしまいます。

その象徴として如来から授かった袈裟一枚を出すのです。

これを見た観音禅院の僧侶は涙をこぼし、悔しがります。

「自分がこれまで集めてきたものは、ほんとうにクズばかりだ、カスばっかりだ、ガラクタばかり」
と嘆きます。
そして、
「それこそ、まことの宝」
と悟るところまでは正常なのですが、そのあと
 「いつもの癖」 
が出てきて、なんとか誤魔化してそれを奪いたいと思う気持ちに支配されます。

そこで 一晩貸して欲しい、ゆっくり見たい、と でまかせを言います。
こうやって、腹芸を使って 270年も生き延びてきたのですから、そう簡単に、悪い癖は直りません。

うまく誤魔化して、ちょろまかしてしまえば良いと、それまでのやり方で 「真実」 を得ようとします。

三蔵以下、悟浄と八戒は、そんな騙しのテクニックがあるとは思っていませんから、
「ちゃんと返してちょうだいね」
と言って、何も疑わずすやすや眠ってしまいます。

ところが、悟空だけはそれがわかっています。
修行者はかつて、そういうことを、
したこともあるからなのです。

修行でたたき上げてきた悟空には、観音禅院の和尚の考えなんかお見通しだったのです。

そこでどうするかと眺めていると、やっぱり悪事を始めます。
ハナから面白くなかった悟空は、ここではかりごとをします。

お宝比べの時でも、観音禅院のデタラメな和尚相手にムキになった悟空です。
「そういう悪いことはしてはいけないよ」
なんて、可愛いことは云いません。
俺の方が一枚上なんだぜ、ということろを、やっぱり見せつけないと気が済まないのです。

そんなことをしている間に、袈裟は別の妖怪に横取りされてしまいます。

この時、お袈裟を盗んだ妖怪の名前は

黒風山 の 黒風洞、 黒大王


黒、黒、黒の、黒ずくめの、黒い妖怪とは、人の心の中に棲む黒い悪魔のことです。
腹黒さ、悪意、ごまかし、いやがらせ、という邪心の化身です。

悟空は、ガラクタを見せびらかされて、すっかり嫌気がさし、段々 「嫌がらせ」 をしたくなったわけです。
その感情に支配されてしまったので、忽然と消えてしまった袈裟の行方が、当初はわかりませんでした。
ムカムカとしているスキに、袈裟が消えてしまったのです。

でも、悟空は悟っているので
「ちょっと考えれば、自分の非に、すぐ気が付く」
のです。
それが 自分自身の腹黒さなのだ、自分の心の邪心なのだとわかりました。

そこで悟空は我がうちなる 腹黒さと戦うわけです。

ところがこれに勝てません。
わかっていても勝てません。
なかなか手強いのです。

このとき、黒大王に立ち向かったのは悟空ひとりで、三蔵と悟浄と八戒は、はじめからこの妖怪には手を出しませんし、妖怪も三人には手出しをしていません。

うちなる腹黒さ、黒大王と戦っても戦っても、悟空は勝てず、どうしようもなくなって観音菩薩に援護を依頼します。

「誰かと思えば猿ではありませんか。
相変わらず悪さばかりして、
自分が悪いんでしょう!」

と菩薩さまから一喝されてしまうのですが、
「はいそうです、ごめんなさい」 
と引き下がるわけにもいかない悟空は、なんとかお願いしますと懇願します。
懇願するうちに、邪心を生んでしまった原因も悟ります。

悟空に懇願されて渋々菩薩が登場します。

「おまえほどの者でも、勝てませんか。そもそもおまえが悪いのですよ。しかし、(観音様がおでましになる以外) ほかに、方法はないみたいですね」

とのことです (笑

仏を学び、その知識のある者 (三蔵) にも、空を悟った行者でさえも、自分の心の中にある

悪意、ごまかし、腹黒さ


には、勝つことが出来ない、と
 『西遊記』 は言及しています。

では、どうすれば勝つことが出来るか、と言うことも書いています。

その秘法は、菩薩の行、菩薩の智慧、菩薩の心を持ちなさい、自在心で勝つことが出来る、と物語は教えています。

菩薩の智慧は、悟った人の中には、いつでもあるとは限らない、悟っていなくても、それがないとは限らない、と物語は教えています。


悟空は、空を悟った者。
悟浄は、浄を悟った者。
八戒は、本名を悟能といい、能を悟った者。
(自分とは何者か? 自分には何が出来て、何ができないか)
玄奘は、三つの蔵を求める探求者。
研究者、非常に優れた学者です。

西遊記の旅を始めるスタートラインでは、皆それぞれ、その道のエキスパートで、そこそこ優秀なのです。

それぞれ世界一の専門家で普通だったらカリスマ和尚として君臨できる程の実力者ばかりです。

その四人が、如来 (お釈迦様) のお導きで、旅に出ます。
みずからも如来になるにはどうしたら良いか、ということが 西遊記には書かれています。


西遊記の、このセンテンスについて
いろんな解釈ができると思いますが、
このような解釈もできると思います。

2006年7月1日(土)
合掌

野崎明美・九拝
by polestar01 | 2006-07-01 01:40 | 登場人物
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